2006年9月4日
【三草山・1】 三草山は源平の古戦場です。三草山での合戦の後、 義経は、摂津の国と播磨の国の国境(神戸市)の一ノ谷・鵯越に向かって、一ノ谷の合戦・鵯越の坂落としに至ったようで、 源平合戦の火蓋を切ったのが、三草山になるようです。 |
三草山には3つの登山道があります。その中で、もっとも短い
畑コースを選びました。登山道の入り口に駐車場があります。
畑コースの登山道の入り口です。山頂にある三草山神社の鳥居をくぐると登山道です。
しばらくは階段状になっています。ちょっと登って振り返ると、結構見晴らしが良かったです。
写真ではわかりにくいですが、かなりきつい勾配が続きます。
木漏れ日が美しいと感じました。聞こえてくるのはセミの鳴き声だけ…
動画(Windows Media Player)
セミの鳴き声(約50秒)
【三草山・2】 当時は、まだ大阪の町が葦の生い茂る湿地で、大阪に町が出来たのは 大阪城築城以降です。当時の西国街道は、京都から淀川を下って、池田や伊丹の辺りから芦屋に至り、福原、須磨を経て、そこから一ノ谷を迂回して、鵯越の手前・白川を経て明石に至っていたようです。 須磨・一ノ谷の辺りは、摂津と播磨の国境の山である鉢伏山が海までせり出して、切り立った断崖となって、屏風ヶ浦と なって通行出来なかったそうです。京都から播磨や西国諸国への街道として、今の国道372号線(京都亀岡から姫路)沿いに丹波を経る経路も重要な街道だったようで、播磨の国の玄関口となる三草山辺りは、要塞の地 として戦略的に重要な場所だったようです。 |
【三草山・3】 寿永2年(1183年)7月に、木曾義仲の京都侵攻を恐れた 平家一門は、京の都を捨てて西国へ逃れましたが、寿永3年1月には京都を目指して和田の泊まりから福原(神戸市)に 陣を敷いて、都の形成を窺う態勢を整えます。 寿永3年1月末には、後白河法皇から平家追討の院宣が下って、源氏軍は2月4日に都を出発します。本隊は西国街道を、 そして義経率いる搦手軍は、おそらく現国道372号線沿いのコースを通って三草山辺りから鵯越へ向かったようです。 平家軍は、丹波路を進軍してくる源氏の搦め手軍を防ぐ為に、三草山に陣をとって待ち受けていたようです。2月4日の朝 に都を出発した義経は、普通なら2日掛かる行程を一日で進軍して、その日の夜半に三草山に夜襲を掛けました。合戦は 翌日と油断していた平家軍は不意を襲われ、ほとんど戦うことなく加古川沿いに高砂まで逃れて、そこから讃岐・屋島に 渡ったようです。 |
【三草山・4】 三草山での合戦に勝った義経軍は2月6日の朝に、手勢を2つに 分けて大半を一ノ谷の西に向かわせ、自らは少数の精鋭を率いて鵯越に向かったようです。2月6日には藍那(神戸市)に 軍を進めたようで、”相談が辻”という地名が残っており、そこで最終的に奇襲作戦(坂落とし)を決断したようです。 鵯越墓園に蛙岩という大きな岩があって、その近くに”義経駒つなぎの松”があります。ここからは大阪湾から福原、 一ノ谷の背後の山や明石海峡まで見渡せるので、おそらく2月7日の早朝に義経は平家軍の布陣や合戦地の地形を確認して、 最終的な攻撃作戦を練ったのではないでしょうか? ”鵯越の坂落とし”の具体的な場所は2つの説があり、筒井康隆の「こちら一の谷」が、それを扱った短編の作品です。 |